会社概要
E-Mailinfo@tatami-hirakuri.jp
会社名 | 株式会社 平栗 |
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所在地 | 本社・工場 〒969-1404 福島県二本松市油井字東宮下山2-1(地図) |
役員名 | 代表取締役 平栗 清一 取 締 役 平栗 清二郎 取 締 役 平栗 慶子 |
事業内容 |
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営業種目 | ●畳工事 ●内装工事 ●リフォーム工事 ●リフォーム住宅販売 |
連絡先 | フリーダイアル.0120-221-847 TEL.0243-22-1847 FAX.0243-22-1815 |
許 可 | 建設業許可番号 福島県知事(般-29)第16513 宅地建物取引業者免許証番号 福島県知事(1)第3287号 |
資本金 | 3,000万円 |
従業員数 | 7名 |
製造能力 | 30000枚/年間 |
収納装置 | 立体自動製品管理センター 3,000枚収納可能 |
主要お取引先 | 一般顧客様、淺沼組㈱様、㈱一条工務店様、鹿島建設㈱様、大和ハウス工業㈱様、㈱竹中工務店様、大成建設㈱様、松井建設(株)様 |
車両 | 2トントラック:1台、ワゴン:2台、乗用車:2台 |
たたみ一筋に、誠心誠意を込めて・・・
明治の開業です。
当社は先々代の平栗卯三郎が明治30年に平栗畳店として創業したのが始まりで現社長(私の息子が5代目社長)を引き継いでおります。
昔は、畳その物を手で針で縫う仕上げ方しかなく、「腕自慢の先祖」とよく父親から聞かされました。
現在会長の私は、小学校5年生頃から厳しく仕事を仕込まれました。昭和32年父は若くして倒れ、職人さんも大勢いたのでやむを得ず家業を継がざるを得なくなりました。
畳の営業を始める。
当時は新築住宅などはなく、盆、正月前又は結婚式人寄せの時位に畳を取替えをする位で仕事が、いくら手作業とはいえ毎日はありませんでした。このままでは先々どうにもならなくなる。
10代の事で世の荒波に放り込まれた矢先、若さ故に他人の債務を背負わされるなど失敗と苦労の連続でした。今日、その様な大きな経験が大きな教訓となりました。
当時の畳業界は職人気質というか、営業活動などする人がいなかった様に思います。将来畳離れが進む中、又生活様式の変化をいち早く読み取り安定受注をと優良取引先を確保する為には営業活動は欠かせないと判断し、昭和40年代に入ってまず県内外の優良ゼネコン、住宅・ハウス会社、旅館等、積極的日夜活動を始めました。
畳も時代の変化と共に。
その頃から昔ながらの藁床より、もっと運搬作業、荷上げ品質の良い物でないとコンクリート造りの機密性の高い建築物ではカビ、ダニ虫等もあってその対策に苦慮しました。
また、これからは若い人、女の方々でも持てる畳、健康にやさしいより良い畳が必要と日夜考えていました。昭和60年に軽量で耐久性、虫が出にくいという特性を持った製造メーカーを知り、これは幸いとメーカーと共に営業事業展開を進め、これが当社の革命発展の第一歩となりました。
恩人との出会い。
その頃22年前に東京のI氏(恩人)との出合いがなかったら、今日の私はなかったとしみじみ思います。そのI氏に発注分件で大きな失敗を致し、それが逆に同氏と親密になり不思議な縁で結ばれました。
経営哲学、大手ゼネコンとの取引の仕方、果てには人間としての生き方まで、公私共々指導を戴いております。
特に畳業界全国のトップ畳企業社との年一度の集会の場に入会させて戴きました。北海道、東北(平栗)、東京、新潟、名古屋、大阪、京都、広島、九州、四国と十社にて、年に一度各地区を会合の場として、これからの展望、情報、勉強会等、広範な知識と技術向上をモットーに大きな意義ある会を今なおつづけており大きな財産となっております。
近代化への道。
第一工場を昭和48年1月に二本松市宮下に建設、移転。昭和57年9月に有限会社平栗畳工業として法人化し、そのI氏の指導をいて平成元年に現在地に第二工場新築、製造面を全面コンピュータ化に致し藁畳、化学畳、貼替、全般を全てロボット化し、1日の生産枚数200枚の能力を誇っています。
平成3年、全国で一社しか入っていない立体製品管理倉庫を建設。保管能力が30枚ラック100パレット5段(畳3,000帖)収納。完全空調設備によって大切なお客様の製品を常温適換気にて保管し、安心していただけます。
また、同年4月1日に平栗畳工業株式会社と社名を変更致し、平成11年1月1日には株式会社 平栗に社名変更して、現在頑張っております。